Move A Needle

一歩前へ 軽やかに 針を動かす

なまと人工

「生」と書いて「なま」「なま」に飢えていると感じる。

それは、恐らく、このコロナ禍での世の中の流れが関係していると思う。

「生もの」、「生放送」、「生配信」、「生々しい」「生の声」等々、最近、この「なま」感、ライブ感に妙に惹かれる。

「なま」で触れる、近くにいって、マスク無しのなまの顔やなまの表情をみながら論じ合う、そんなことが簡単ではなくなった時代だからこそ、きっと、無いものねだりをしたくなっているのだと分析している。

ググってみたら、「混じりけがない、また、本来のに加工も精製もしていない」とあった。

ことさら辞書を引かなくても、「生(なま)」という言葉を見ただけで、文字通り、「生きてる」感、躍動感を感じる。

でも、それと同時に、別の側面も、この「なま」という言葉に感じている。

つまり、混じりけがなく加工されていないからこその危うさやリスクも秘めた言葉

「なま」だから、変わりやすい、時には腐敗もする、失敗もする、等々。

 

そういうことを考えていくと、私の中では、またしても連想ゲームが始まって、

「なま」ではない、人の手の加えられた製品や人工物のことも浮かんできて、

得体のしれないスピードで、様々な記憶や感情や思考が頭の中を駆け巡ってしまった。

 

人間はずっと前から、「生もの」である臓器を模して「人工」の物をつくることに興味を持ち、あらゆる研究や技術、知恵を注いできたように思う。

人工呼吸器、人工心臓弁、人工透析、人工心肺…等々。

そして、脳のネットワークを真似しようと考え、コンピューターを開発した。

すごい計算能力のスーパーコンピューターが世に出てきてから久しい。

もう皆さん忘れているかもしれないが、十数年前、民主党が政権を取った時代、無駄な予算削減に向けての事業仕分けというのがあった。

連日テレビ放映され、今は亡きロックンローラー、あの内田裕也氏もステッキをつき傍聴に駆け付けたことが懐かしい。

その必殺仕分け人の一人、蓮舫議員の「一番じゃなきゃだめなんですか?2位じゃダメなんでしょうか?」と発言した時の口調も表情も、こんなに時が経つのに「なまなましく」思いだすことが出来る不思議。

チェスの勝負で、人間に初めて勝利したコンピューターのディープブルーという名前も当時かなりのニュースになり、私の脳にも刻まれている。

そして最近、将棋の藤井聡太さんの対局解説で、しきりと耳にするようになったAI

INPUTされたありとあらゆる情報を整理し統計をとり、考え得るすべての選択肢、おそらく何億通り、いや、もっと宇宙レベルの数の選択肢を準備でき、最良と考えられる決断をOUTPUTできるAI。

人間は「なま」の存在。時々ヘマもするし、間違えもする。でも、うまく先が読めないからこその面白みもある。

その対極にいるもののひとつとしてのAI(人工知能)

先が読めて「私、失敗しないんです」の冷たいイメージ。映画では人間の存在を脅かすものとして描かれることも少なくない。

しかし、先日、そのAIという言葉の持つイメージや色を一旦拭き取り、拡張し、新たな色彩感や温度感を与えてくれるような物語を読んだ。

 

カズオイシグロの「クララとお日さま」

 

クララとお日さま

クララとお日さま

 

 

「なま」の人間ではない、AF「人工親友」として製造されたAI搭載の人型ロボット、クララの目を通して語られる物語。

クララは細やかな観察を行い、情報を取り入れ、学習する。

出来事を分析し、それが何を意味するのか理解しようとする。

不穏な空気を感じ取る。

人の表情や目の奥の変化を感じ取る。

プライバシーを尊重できる。

時には、ジョジ―が発する言葉に傷ついたりもする。

今できる事はなにか考える。

想像してみる。

仮説を組み立て、実行してみる。

大切なもの、守るべきもののために、何かを信じ、祈る。

 

クララはお日さまから「栄養」を頂いている。

そして、太陽のエネルギーはクララのAFとしての命に直結していて、お日さまをある意味崇拝している。

クララが目撃したある2つの出来事がさらにそれを強化し、

「お日さま」をGreat Something何か大きな力を持つもの、人智を超越した神のような存在として、ただ純粋に信じ、祈る。

人間の親友ジョジーのために、祈る。

 

太古のむかしから、人類は、太陽を神格化し、信仰の対象としてきた。

ギリシャ神話のアポロン然り、ヘリオス然り。エジプトのラー然り。

日本には、言わずと知れた、天照大神がいる。

 

そもそも、最も科学的なものの集約であるはずのAFクララが、非科学的と思われることを盲目的と言っていい位に信じているということに、不思議な感覚を覚える。

 

 人間とは何?生きてるとは何?感情とは何?こころとは何?愛とは何?

人工と自然のものの違いとは?

クララを産み出した社会では、AFはアクセサリーや雑誌、食器等と一緒の店舗で売られている。その「手軽さ」に違和感を覚えるのは私だけではないと思う。

子どもたちは「向上処置」と呼ばれる、恐らくDNA操作を受けた者たちだけに社会的地位が約束された格差社会。

人間がそのままの存在として存在することがとされる社会。

つまり、「なま」でなく、何らかの修正や操作を受けていなければ半人前扱いされる社会。AFも最新型が重宝され、型落ちの物は差別される社会。

病弱な娘ジョジ―のかわりに、クララをジョジ―の代替品として残しておきたいと計画する母親の愛の歪みの中に在る悲嘆。

長女を失くした悲しみは、時を経てもいまだにナマ傷のままで、手当てされないまま。

母親の心には大きな空洞が出来ていて、

彼女の視線は見ている対象物を通り越し、

何かを求めて彷徨う。

 

様々なもやもやするものを感じ、まさに違和感だらけの展開ではあるのだが、

読後はなぜか浄化されたような、上質のセラピーを受けたような感覚

クララの純粋さ、いわゆる、無償の愛の形にふれ、最後は、柔らかで優しいお日さまの光に包まれたような温かさを感じる作品だったと思う。

 

 次はおまけ。

映画の紹介。

ガタカ [AmazonDVDコレクション]

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  • 発売日: 2014/12/19
  • メディア: DVD
 

 「クララとお日さま」を読んで思いだした映画を久しぶりに観てみました。

何回も観れる映像。

やはり格差社会が舞台。

GATTACAガタカ、1997年、イーサン・ホークが主演の映画。

ガタカのタイトルに浮かびあがるG、A、T、Cは、DNAのグアニン、アデニン、チミン、シトシンの頭文字、塩基配列からきているそう。

舞台は、遺伝子操作をして産まれた者だけが優遇される近未来。自然妊娠で産まれたものは、INVALID「不適正者」として差別される社会。

アイリーンを演じるユマ・サーマンがヴィンセント(イーサン・ホーク)の素性を知って、「神の子なの?」と驚きます。若き日のジュード・ロウが適正者として登場します。

人間について考えさせられると同時に、勇気を貰える映画。

近未来の設定なのに、ファッションも、車も何故かレトロ。

音楽はマイケル・ナイマン。とにかく美しい映画で、お勧めです。

 

もう一つおまけ。

「デトロイト」というゲームの解説動画。

私はゲームは全くしませんが、この解説動画は、精神科医の名越先生がゲストで登場するので、みてみました。名越先生が、出てくるアンドロイドや人間のキャラクターを観察・分析してくれます。

何故か、ナイチンゲールの「看護は観察にはじまり観察でおわる」という言葉を思い出しましたよ。

とにかく面白いです!

 

 長くなりましたが、最後まで読んで頂きありがとうございます。

ではまた!